昨今、現代アートは工芸、とりわけ陶芸と接近し互いに侵食しあい境界が曖昧になっている。そんな状況を「多様性」、「ジャンルの越境」と好意的に捉える展覧会は多いが、その多くが単にアートマーケットで表面的に消費されていくのみであるとは言い過ぎだろうか。本展はそんな状況において「伝統と革新」のようなセルフオリエンタリズムや本質主義を再発見するようなキャッチフレーズは掲げない。そうではなく、浜名と梅津がそれぞれに見ているエコシステム、価値基準の共振をまずは丁寧に確認したい。その上で、現代アートと工芸というフレームではなく、広い意味での「ものづくり」、そして「信頼関係」を起点に展覧会を立ち上げる。
千葉のいすみ市で作陶をする浜名は、アメリカ留学、スニーカー販売、レストラン経営、漁師、アンチョビ作り、農業と異色の経歴を持つ。その一見バラバラな営みの根底に流れるのは「子供の頃から憧れていた自然との暮らしや自給自足生活」である。また「こんなものがあったらいいなぁ」という思いで「ないもの」を独学自力でつくってきた。陶芸もその一環であるという。
浜名はアートマーケットや観客に媚びることなく、自然と生活を一体化させた半自給自足の生活と、ものづくりとが分かち難く結びついたサイクルを確立している。
一過性のものではなく時代を超えて在り続ける「もの」を追求している浜名だが、近年は江戸時代に建てられた古民家の「改装された部分を取り去り当時の姿に戻す」、いわば逆改装も試みている。また、地元で使われなくなった古い家を買い取っては制作の過程毎に使い分けられるスペースを少しずつ作っている。ゆくゆくは作家を呼んで作品制作をできる場所にしたいという。その時々で、常に自身のやりたいことに向かってきた浜名だが、自分なりの方法で地元の地域社会への還元を考えている。それは広義の意味での「共同体」を捉え直す浜名の新しい挑戦だと言えるだろう。
一方、梅津はラファエル・コランの《フロレアル》や黒田清輝の《智・感・情》など、日本の近代洋画の黎明期の作品を自らに憑依させる自画像でキャリアをスタートさせた美術家である。そこには北澤憲昭『眼の神殿―「美術」受容史ノート』(1989年)や椹木野衣『日本・現代・美術』(1998年)に通じる、グローバルアートに対して日本固有の現代美術は成立し得るのか?という問題が織り込まれていた。しかし梅津はこのドメスティックな問題に取り組みながらも、その前提を自ら覆すような活動も同時に行なっている。人の無意識や夢を主題にしたピュアなドローイング、自らの裸体をさらけ出すパフォーマンスを記録した映像作品、最近始めた陶芸、ノンプロフィットのギャラリー「パープルームギャラリー」や私塾「パープルーム予備校」の運営、批評活動、展覧会のキュレーションなど1人の作家の仕事とは思えないほど広範囲で多岐にわたる活動を展開している。本展ではそんな梅津のもっとも新しい仕事を紹介する。梅津の陶作品は一見、子どものように自由にのびのびとつくられているが、前衛陶芸家のグループ「走泥社」をやや批判的に受け継いでもいるという。また和陶芸特有の釉薬づかいを探求し「民芸」のテイストのみを抽出し自作に纏わせる。本展では芯に既製のガラス瓶が入ったまま焼く《ボトルメールシップ》シリーズ、ドローイングの大作、大塚オーミと協働で制作した陶板、そしてギャラリー全体を「室内画」と見立て床や壁、作品をのせる什器にまで手を加えている。梅津はかつてゴッホがゴーギャンを「黄色い家」に招いたように浜名作品を2人の作品のためにつくられた神秘的な空間に誘う。
冒頭で述べたように本展は、出自もこれまでの歩みもまるで異なる2人が互いの活動や作品に興味を持ち純粋に惹かれあって開催される展覧会である。ちなみに浜名は梅津の主宰するパープルームのYouTube番組「パープルームTV」の視聴者でもある。梅津は浜名作品を「技巧に依拠しない、そして一見素朴でシンプルなのに不思議な奥行きがある」と語る。2人はまったく違う、スタンス、アプローチでありながら既存のアートの制度や慣習を自明のものとせず、DIYの精神で環境や共同体も自前で作ろうとしている。そういった意味で2人は時流に流されない「パイオニア」であると言えるかもしれない。
東京のワタリウム美術館で開催中の梅津の個展「ポリネーター」は、植物の花粉を運んで受粉させる媒介者という意味をもち、梅津自身の立ち位置を表す言葉である。
本展は、会場自体が一つの作品と化した「ポリネーター」展と空間的にも精神的にも連続性を持っている。浜名と梅津、そしてわたしたちの間に花粉はどのように舞い、あるいは受粉するのだろうか?
現代においてこのような機会はアートに限らず稀有なことだろう。
<以下、浜名からのコメント>
壺は古代に人類が最初に作った道具の一つで、食料や水の運搬や保存、火を使って料理の煮炊きにも使われました。
現在21世紀を迎え、それら壺が果たした役割は、プラスチックやガラスや金属、均一で使いやすい工業製品が取って代わりました。
そうやって我々の暮らしは便利になったわけですが、はたしてそれは人生を便利に過ごすことと同じ意味合いなんでしょうか?
その疑義を形に表したのが、私の作るやたら大きく、物の貯蔵にも適さないような、壺の形をしたオブジェです。
壺=過去の道具=不要?
我々人類には一体何が本当に必要で、何が不要なのか?
世界一無駄に見える壺を前にして、一緒に考えましょう。
そして同じく、一見使い道のなさそうな陶芸作品を作り始めた、梅津庸一さんとの化学変化が大いに楽しみであります。
浜名 一憲
浜名 一憲(はまな かずのり)
1969年大阪府生まれ。現在千葉県いすみ市を拠点として制作活動。1988年農業高校卒業後、カリフォルニア州サンディエゴへ留学。帰国後、東京にてスニーカーショップや飲食店を経営する。米の自然栽培やアンチョビソースを製造販売する傍ら、作陶を行う。主な個展には2014年「壺と海の漂着物」Hidari Zingaro(東京);2018年Curator's Cube(東京)(同2020年);2019年Blue Mountain School(ロンドン);2020年Pierre Marie Giraud(ブリュッセル・ベルギー);2021年「Kazunori Hamana in collaboration with Yukiko Kuroda」Blum & Poe Los Angeles(ロサンゼルス・カリフォルニア・アメリカ)などがある。主なグループ展には、2015年「Kazunori Hamana, Yuji Ueda, Otani Workshop」(キュレーション:村上隆)Blum and Poe(ロサンゼルス・カリフォルニア・アメリカ);2019年「Mingei Now」現代美術 艸居(京都);2021年「Kazunori Hamana, Ooido Shoujyou」Blum and Poe(東京);2021年「白展」艸居アネックス(京都)などがある。
梅津 庸一(うめつ よういち)
1982年山形県生まれ。美術家、パープルーム主宰。日本における近代美術絵画が生起する地点に関心を抱き、日本の美大予備校や芸大での教育に鋭い視線を投げかけた制作、活動を行う。自画像をはじめとする絵画作品やパフォーマンスを記録した映像作品の制作、展覧会の企画、論考の執筆などの活動に加え、制作/半共同生活を営む私塾「パープルーム予備校」の運営など、多岐にわたる活動を展開。主な個展には2014年「智・感・情・A」ARATANIURANO(東京);2015年「ラムからマトン」ARATANIURANO(東京);2017年「APMoA Project, ARCH vol. 20 梅津庸一個展 未遂の花粉」愛知県美術館(名古屋・愛知);2021年「平成の気分」現代美術 艸居(京都)などがある。主なグループ展には、2017年「恋せよ乙女!パープルーム大学と梅津庸一の構想画」ワタリウム美術館(東京);2019年「百年の編み手たち―流動する日本の近現代美術―」東京都現代美術館(東京);2020年「梅津庸一キュレーション展 フル・フロンタル 裸のサーキュレイター」日本橋三越本店本館6階コンテンポラリーギャラリー(東京);2021年「平成美術:うたかたと瓦礫(デブリ)1989-2019」京都市京セラ美術館(京都);2021年「絵画の見かた reprise」√K Contemporary(東京)などがある。 現在、東京のワタリウム美術館にて「梅津庸一展 | ポリネーター」が開催されている。