艸居では、ジョエル・リフ(Joël Riff)をキュレーターに迎え、大田垣蓮月とクロディーヌ・モンショセ(Claudine Monchaussé)による二人展を開催いたします。本展は、クロディーヌ・モンショセの作品が日本で初めて紹介される機会となります。

ぜひこの貴重な機会に、ご高覧いただければ幸いです。

 

「にごりもながれては」は、ひとつの変容を捉える。土もまた、姿を変えてきた。自らの流れに洗われた川の泥のなかから、いま、澄んだものが現れる。そこには時間が必要だ。水はふたたび澄み、土も新たな姿を見せる。ここに至るまでに必要だったすべてを、ときには濁りさえも、くぐり抜けてきた。そうして混沌から意味へ、線から言葉へ、泥から美へと変わりながら、それは鮮烈に、力強く、ただそこに在る。

 

クロディーヌ・モンショセは、フランス中部で薪窯による炻器の制作をたゆまず続けている。自らがまさにいるべき場所にいるという確信のもと、細い脚部で立つ、紛れもない均衡を備えた像を形づくり、互いを補い合う主題を、絶えず新たなものを生み出す動きのなかで結び合わせていく。彼女の彫刻は、相反する力の結実であり、作家はその力を通す媒介者となる。そこから、普遍的なアルファベットが静かに立ち現れ、彼女に代わって語る。

 

大田垣蓮月は書く。彼女はさまざまな媒体を用い、自らの思いにかたちを与える。土にも紙にも、墨と同じように余白を生かし、くぼませたり、付け加えたりしながら、言葉を紡ぎ、記していく。どこか不器用にさえ見える器や、素朴な細長い紙片である短冊からは、驚くほどの慎ましさがにじみ出る。それでいて、後者は驚くべき力を放っている。どこを見ても、そこには彼女の手の痕跡がある。

 

「にごりもながれては」は、二人のうち一方が詠んだ詩の一節であり、もう一方のアトリエの壁に貼られていても、まったく不思議ではない。果てしない流れからすくい上げられた、小さな断片である。こうして二人の作家は、一世紀半という時間と約1万キロもの距離を越えて結ばれる。それは、果てしない広がりのなかにある確かな証しである。二人の作品には多くの共通点があるが、なかでも際立つのは、抗いがたい上昇への力だろう。一方は悲劇的な人生から、もう一方は窯の中の望まぬ領域から、それぞれの「地獄」を抜け出していく。

 

大田垣蓮月は、40代になってから、自力で作家として新たな道を切り開いた。1791年、京都で侍と芸者の間に生まれ、のちに尼となる彼女は、養家で高い教養を身につけて育った。幾多の苦難を乗り越え、陶工としても書家としても、その手わざを常に和歌に捧げながら、絶大な人気を博した。大きな影響力を持つ存在となった彼女は、鴨川に橋を架けるための費用も拠出した。そこにも、流れるものすべてに変化をもたらした彼女の姿が重なる。1875年に没した。

 

クロディーヌ・モンショセは、ひとり黙々と彫刻をつくり続けている。1936年、パリ東方の田園地帯に生まれ、陶芸の伝統で名高いラ・ボルヌの村で初めて土に触れた。現在も同地を拠点としている。70年にわたり、彼女はそこで、相反するものを和解させようとする情熱的な衝動を支える糧を見いだしてきた。それはときに母性と雄牛という主題に表れ、無数の変奏を生み出している。まもなく、これらの主題を新たに組み合わせた作品が焼成される。

 

「にごりもながれては」には、上へと向かおうとする衝動が宿っている。本展が讃えるのも、動きを内包した垂直性だ。そうして、小さな丘から花開く月へと、私たちは上へ伸びていく。沈むことを断固として拒む力は再生を促し、その再生は波に洗われるたび新たになる。だからこそ、私たちの眼差しもまた自らを洗い澄まし、取り戻された鮮明さへ、曇りなくまっすぐ向かわなければならない。流動するその眼差しが、私たちを変えていく。(ジョエル・リフ)